ディエゴ・フォルラン(セレッソ大阪/ウルグアイ代表)

 

祖父は元ウルグアイ代表監督で、父親は二度のワールドカップ出場経験を持つ、往年の名DF。裕福なサッカー一家でのびのびと育ったディエゴ・フォルランは、家族にとって、明るく、元気な、まさに太陽のような存在だった。

 

サッカーとテニスの天才児

 

 

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ウルグアイの首都モンテビデオに、カラスコという地区がある。閑静な一帯に巨大な豪邸が建ち並ぶ、市内で、いや国内でもっとも高級な住宅街だ。


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プロのサッカー選手だったパブロ・フォルランは1978年にブラジルから母国に戻ったとき、この町に住居を構えた。妻ピラールとの間にはすでに、男の子ひとりと女の子が二人(長男パブロ、長女アドリアーナ、次女アレハンドラ)いたが、フォルラン夫妻はもう一人、それも男の子を授かる事を望んでいた。カラスコの豪邸も、大家族になることを想定して建てたものだった。


 

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父パブロは18歳のときウルグアイの名門ペニャロールでプロデビューを飾り、長身のストッパーとして活躍。ウルグアイ代表にも選出され、ワールドカップも66年大会と74年大会に出場した。


 

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ペニャロール退団後は、ブラジルのサンパウロとクルゼイロでプレーし、その後は母国に戻って、78年にナシオナル・モンテビデオに入団。ここで1シーズンを過ごした後、84年に現役を退くまでデフェンソールでプレーした。

「息子をもうひとり」
というパブロとピラールの願いは79519日に叶う。フォルラン家に誕生した4人目の子どもは元気な男の子で、ディエゴと名付けられた。





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ディエゴは兄や姉達と同様、スポーツが大好きな子どもだった。


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父はディエゴにサッカーボールを与え、いつもボールを蹴らせていたが、彼が好きだったのはサッカーだけではなかった。目にする全ての競技に、ディエゴ少年は興味を抱いたのである。

父パブロは語る。

「うちの子ども達はみんなスポーツが大好きだったが、ディエゴは特に運動神経も良くてね。サッカーおバスケットも、なんでも器用にこなしたものさ」



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ディエゴは週末になると兄や姉達と一緒に、近所の「カラスコ・ラウン・テニスクラブ」でスポーツを楽しんだ。
 

裕福な人だけが集まるこのスポーツクラブには、テニスやパドルテニス、水泳、そしてサッカーといったスポーツに、本格的に取り組めるだけの最新の設備が整っていた。ここでディエゴは5歳からサッカーを始めたのだが、小学校に上がる頃にはサッカーと同じくらいテニスにも熱を入れていた。

 

実際、クラブで子ども達にテニスを指導していたコーチ達は、

「息子さんにはテニスの才能があります。プロを目指して、今から本格的にやらせてみてはいかがでしょうか。絶対に後悔する事はないと思いますが……」

と、それこそ父パブロの顔を見るたびに、本気で説得してきたという。

 

「みんな目が真剣だったから、おそらくディエゴには、本当にテニス選手としての才能があったんだろう。なかには『テニスならウルグアイよりもアルゼンチンの方が優れた指導者がいます。紹介状が必要な時は相談に乗りますよ』って、そこまで言ってくれるコーチもいたほどだからね」

 

しかし父パブロは、ディエゴをプロのサッカー選手にすると決めていた。それが彼自身の夢であり、目標でもあったのだ。これについては、母のピラールも同意見だった。

 



 

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彼女の実父、つまりディエゴにとっては祖父にあたるファン・カルロス・コラッソは、60年代にウルグアイ代表監督を務めていた人物(62年ワールドカップで指揮)。つまり代表監督の父を持ち、代表選手の妻となったピラールにとっても、テニスよりサッカーの方が身近なスポーツだったのだ。

 

ただパブロもピラールも息子からテニスを取り上げようとした事は一度もなかった。

「テニスは上半身だけでなく、足腰も鍛えられるし、ボールが飛んできた方向に素早く走り寄らなければならないから、集中力や瞬発力も磨かれる。つまりサッカーのトレーニングとしては、テニスは最適なスポーツだったんだ」

また父パブロは、ディエゴに利き足だけでなく両方の足でボールを蹴る練習を幼い頃から何度も繰り返しさせていた。それは彼地震が、選手生活の中でずっと思い知らされてきたことだったからだ。




姉が交通事故で阪神不随に



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ディエゴはラケットを肩に担ぎ、サッカーボールを蹴りながら、ほぼ毎日ラウン・テニスクラブに通った。サッカーもテニスも順調に上達していったが、兄パブロ(父と同名)によればディエゴは、12歳になるまでの7年間に、少年サッカーの試合で通算300ゴールをマークしたという。


 

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ところがスポーツを愛する幸せな一家に、突如思いも寄らぬ不運が降り注ぐ。ディエゴが12歳のとき、当時17歳だった姉のアレハンドラが交通事故に遭い、脊椎を損傷。半身不随になり、余生を車椅子で過ごさなければならなくなったのである。

 

あんなにテニスが大好きだった姉がもう二度とコートを走り回る事が出来ない。その事を考えるとディエゴは涙が止まらなかった。だが彼は、姉の目の前では絶対に泣かなかった。いつも明るく振る舞い、アレハンドラを元気付けていたのである。

 




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「ディエゴは本当に賢くて良い子よ。事故の直後は、わたしもショックでよく泣いていたし、家族のみんなも、わたしにどんな言葉をかけたらいいか、いつも悩んでいるみたいだった。でもディエゴだけは、それまでと同じように笑顔で接してくれたの。あの子はフォルラン家にとって、太陽のような存在なのよ」

 

姉の事故に精神的な打撃を受けながらも、父パブロはディエゴをプロサッカー選手にするためのプランを着々と進めていた。またディエゴも、この頃から将来について真剣に考え始める。そして彼はテニスを趣味の範囲に留め、サッカーに専念する決意を固めたのだった。

 

後に一部のメディアで「ディエゴがテニスを諦めてプロサッカー選手の道を選んだのは、姉アレハンドラの治療費を稼ぐためだった」と報道された事があったが、

「それは真実ではない」

と、父パブロは言う。

「あの事故でわれわれ家族の絆が以前にも増して深まったのは事実だが、ディエゴは治療費を稼ぐためにサッカー選手になろうと決めたわけではないし、わたしも息子を何がなんでもプロのサッカー選手にしなければならないほど、経済的に困っていたわけではない」

 

これについてはアレハンドラも次のように話している。

「ウチほどのサッカー一家に生まれてプロを目指さないほうが、逆におかしいんじゃないかしら(笑)。わたしが事故に遭う前から、ディエゴはサッカー選手になろうとしていたんだし、マスコミはわたしたち家族の思い出を、無理にドラマチックに仕立ててくれなくてもよかったのよ」



インデペンディエンテ入団 
 


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ディエゴがプロへの第一歩を踏み出した場所は、若き日の父がプロデビューを飾ったクラブ、ペニャロールだった。

あっさりと入団テストに合格したディエゴは、下部組織で本格的なトレーニングを開始。ラウン・テニスクラブに開花したストライカーとしての才能は、ますます磨きがかかっていた。

 

プロを目指してクラブの下部組織に入団すると、学業との両立が難しくなり、学校を中退するケースが多い。だがディエゴは学校をやめようとはしなかった。カラスコ地区に住む他の裕福な家庭と同じように、彼もまたモンテビデオ市内の名門私立校に通っていた。

父パブロはこう語る。

「ディエゴはとにかく、色んな事に興味を持つ子だった。スポーツだって、サッカーだけじゃなくテニスも好きでゴルフもバスケットボールも水上スキーも全部好き。しかも彼は、その全てを上手にこなす事が出来たんだ。学校の勉強もそうしたもののひとつとして捉えていたんじゃないかな。あの子なりに両立する手段を考えながら、どちらも中途半端にならないように頑張っていたよ」




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97年、下部組織の最終カテゴリーにあたる4軍に到達する年に、ディエゴはペニャロールを退団してダヌビオに入団する。ダヌビオでは、ダニエル・マルティネスというコーチに出会い、彼の元で1年間、ディエゴは相手ゴールの前でのスペースの作り方と使い方を徹底的に学んだ。
 



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「ディエゴはピッチの中で、消えては現れるタイプのストライカー。前線ボールを待つだけじゃなく、中盤でゲームメイクにも参加して相手のマークを混乱させることに長けていた。ただ仲間のパスを呼び込むようなプレーは皆無だったんだ。そこでわたしは、彼にエリア付近でどのように動けば、理想的なパスを引き出す事が出来るのかを教え込んだんだ」(マルティネス・コーチ)

 

 

そして1年後の981月、ウルグアイでは自分が追求するレベルまで成長できないと判断したディエゴは、アルゼンチンに渡った。

父パブロは当初、ブラジル行きを勧めた。かつて在籍したサンパウロとクルゼイロに、強いコネクションを持っていたからだ。だがディエゴは、言葉も生活習慣もウルグアイと変わらないアルゼンチンを選択。そこで父パブロは、現役時代の友人オマール・パストリサが監督を務めていたインデペンティエンテに、息子を送り込んだ。

 

ただ、“パブロ・フォルランの息子”という肩書が通用するのは入団テストを受けるまで。不合格となるか、合格しても下部組織行きを命じられるか、そのままプロ契約にこぎ着けるかは、本人の実力次第である。しかもディエゴは、ウルグアイ代表DFとして二度のワールドカップに出場して父とはまるで異なる、ストライカーとしての美徳をアピールしなればならなかったのだ。

 

結果から言えば、ディエゴはプロテストに合格した。プロ契約には至らなかったものの、彼はインデペンディエンテの4軍に入る事が出来たのだった。

 

インデペンディエンテでは当初、地方から来ている仲間達と一緒にクラブの宿舎で生活。ウルグアイでは、自分と同じように経済的に恵まれた環境に育ち、十分な学校教育を受けている友達とばかり遊んでいたが、インデペンディエンテの宿舎には、貧しい家庭から来ている選手や、学校に行った事もない選手がたくさんいた。

ディエゴはそんな仲間たちともすぐに意気投合した。有名な選手の息子である事も、ウルグアイでは高級住宅街に住んでいたことも、ここインデペンディエンテではなんの意味も持たないし、それ自体が自分にとってどうでもいい事のように思えた。なぜなら、この時もっとも重要な事は「プロ契約」という目標を達成できるかどうかだったからだ。

 

そして9810月、ディエゴはついに1軍デビューを果たす、その勇姿を観るため、ウルグアイからは家族だけでなく、ラウン・テニスクラブ時代の友人達も大勢で応援に駆け付けた。

 

994月にはU20ウルグアイ代表の一員としてワールドユースに参加。準決勝でU20日本代表と対戦している。

 
 

 

1年目のスペインで得点王

 



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DFの当たりが激しく、パスやドリブルが独特の店舗で繰り出されるアルゼンチンリーグは、外国人ストライカーがもっとも活躍しにくいリーグだと言われている。だがディエゴは2年目以降、安定したパフォーマンスを披露し、3年目にあたる2000-2011シーズンには、前・後期合わせて大量18ゴールを叩き出した。そして、「ウルグアイからやってきたテニスが得意なストライカー」は、その人柄の良さも手伝って一躍人気者となった。

インデペンディエンテで結果を出し続けると、やがてヨーロッパのクラブからも注目される存在となる。021月には名門マンチェスター・ユナイテッドへ移籍し、ファン・セバスティアン・ベロンに次いで、クラブ史上ふたり目の南米出身選手となった。


 

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その2カ月後にはウルグアイ代表に初召集され、さらに日韓ワールドカップにも出場。ワールドカップ初ゴールが生まれたのは、ウルグアイのグループリーグ敗退が決定したセネガル戦だったが、チームの不甲斐ないプレーぶりを厳しく非難したウルグアイのメディアも、「フォルランのように才能も闘志もある若い選手がいる事に、われわれは感謝しなければならない」とディエゴにだけは高い評価を与えていた。

 



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ただマンチェスターでは、フラストレーションの溜まる日々を送る事になった。チームメイトとはすぐに打ち解け、クラブからも良い待遇を受けたが、プレミアシップのスタイルになかなか馴染めず、ようやく初ゴールが生まれたのは移籍後24試合目のことだったのだ。

 

 

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そして2年後の2004年、ディエゴは憧れのスペインへ渡り、ビジャレアル移籍後の最初のシーズンでいきなり25ゴールをゲット。リーガ・エスパニョーラの得点王に輝き、当時アーセナルに所属していたディエリ・アンリとともに、ゴールデン・ブーツ賞(ヨーロッパ得点王)も獲得した。

 

ディエゴがリーガの得点王に輝いたことは、家族はもちろん、故郷の友人たちを大いに喜ばせた。ラウン・テニスクラブ時代からの親友ルッソは語る。

「ディエゴは、ラウン・テニスクラブで一緒にサッカーをしていた仲間たちの夢を叶えてくれる魔法使いなんだ。僕たちは彼の活躍に、実現できなかった自分達の夢を重ねて見ることが出来る。ディエゴがインデペンディエンテの一軍にデビューした時、ウルグアイ代表としてワールドカップに出場した時、プレミアシップでゴールを決めた時、そしてスペインで得点王になった時……。彼のプレーを見ながら、何度感激の涙を流したかわからないよ」



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姉のアレハンドラにとって、かけがいのない弟ディエゴは「まるで天使」のようだという。

「だって、マンチェスターとマドリードで二度もベッカムに会わせてくれたのよ。夕食の席で、ベッカムはディエゴの姿を見付けるとすぐに歩み寄ってきてくれたの。ディエゴはどこに行ってもだれからも愛される、天使のような魅力を持っている子なのよ」

父パブロは誇らしげにこう語っていた。

「何事も真剣に取り組み、中途半端なままにしておかない姿勢が、今日のあの子を生みだしたんだろう。もしテニスを選んでいても、きっとATPランキングの上位に入る素晴らしい選手になっていただろうね」 

 
 


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パブロの言葉は、決して大袈裟ではない。現在もディエゴは、マネージャーを務める兄パブロと一緒に、いまもほぼ毎日テニスをtな惜しんでいるのだから。

 
 


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その後の活躍は語るまでもないだろう。アトレチコ・マドリーでは33ゴールを叩き出しリーガで再び得点王に輝き、ヨーロッパリーグを制覇。
 


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2010年ワールドカップではウルグアイ代表を3位に導きMVPを獲得。
 


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2011年のコパアメリカ(南米選手権)ではウルグアイを優勝に導き、祖父・父・ディエゴによる3代でのコパアメリカ優勝という快挙を成し遂げた。

その後、インターミラノ、インテルナシオナルを経てセレッソ大阪へ入団が決まった。 
 


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昨年12月には薬学を勉強中のパス・カルドーソさんと結婚。

 


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パスさんはホッケーのウルグアイ一部リーグ・オールドガールズに所属し10番を背負うスポーツウーマンでもある。息子を授かれば4代に渡ってのコパアメリカ制覇もありそうだ。

 


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「サッカー一家の太陽」ディエゴ・フォルランの活躍を期待しよう!ようこそJリーグへ!