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ワールドカップ決勝で、負傷のケディラに代わり急遽先発出場する事になったクリストフ・クラマー 

しかし前半途中に相手選手の肩があごに当たり治療を受け、いったんはピッチに戻ったが、続行不可能となったためシュールレとの無念の交代を強いられた。 



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このクラマー、ボルシアMG所属189cmの大型ボランチ。23歳。 

レバークーゼンから期限付き移籍していた2部ボーフムから、13年7月にまた期限付きでボルシアMGに加入すると、開幕のバイエルン戦から先発に名を連ねて13-14シーズンは33試合に出場。ダブルボランチの一角としてボルシアMGのEL出場権獲得に大きく貢献。 

ディフェンスラインからボールを引き受けてのビルドアップに始まり、中盤での正確なショートパスでの繋ぎ、また積極的に前線に上がっての攻撃参加が特徴だ。 

初招集となったポーランド戦で初先発したドイツ代表でもクラマーはそのままいかんなく発揮した。そのプレーを目の当たりにしたヨハヒム・レーブによってワールドカップのドイツ代表メンバーに選出された。 

非常に勤勉でサッカー日記を毎日つけ、気になったことは必ず書きとめるようにしており、グラウンドの上でも一切手を抜かない姿勢は、常に指揮官から称賛されてきた。 

「恐ろしくよく走る」ピッチ上では1試合平均13キロ以上を走破する“マラソンマン”と呼ばれる。 




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そのクラマーだが“日本サッカーの父”と呼ばれるデットマール・クラマーの孫である。 

デットマール・クラマーは東京オリンピック開催にあたってドイツから招聘された。ドルトムントに生まれ、ドルトムントやウイスバーデンのクラブでプレーした彼は、第2次大戦中はパラシュート部隊の指揮官としてクレタ島やサハラ砂漠、そして東部戦線での過酷な戦場体験を経て、荒廃した祖国で、西ドイツ協会(DFB)のゼップ・ヘルバーガー主任コーチの情熱に出合う。来日時は35歳ながらすでにコーチとして10年のキャリアを持っていた。 


東京オリンピックが終了するまでの延べ約1年10カ月、日本サッカーの基礎を築き上げた。クラマーは基本の基本から徹底的に教えただけでなく、「サッカーの哲学」を日本へ植え込んだ。 

背筋がピンと張り、眼光けいけい、自信に満ちた、よく響くすばらしい声で、えも言われぬ強烈なオーラを放っていた。情熱的に選手を叱咤激励し、自己を律しながら率先して動き回り、徹底的に厳しいトレーニングを課し、そんな激しさの中でも、優しさとウイットあふれ、タイミングよく気を和ませてくれる指導者だったという。まさに「サッカー伝道師」であった。 


一方で、重要視したのは、文化や風習の違う若者たちの心をつかむことだった。クラマーは『選手と一緒に生活しなくて、どうやって選手の気持ちが分かるんだ』と選手と同じ旅館に入り、寝食をともにし、風呂にも一緒に入った。 

「私がうまくはしを使えるようになるのと、君たちがサッカーをうまくなるのと、どっちが早いか競争しよう」 

グラウンドを離れると壁をつくらなかった。選手が就寝後に部屋を見回り、はだけた布団をかけ直した。「それを選手が見て、クラマーの人柄に触れた」 



審判の講習も手掛けていた。 

頼まれれば北海道から九州までどこへでも行って、ほとんど1日も休むことなく、子供や若い選手を指導。クラマーが日本全土に蒔いた種は、息子から孫にまで伝わり、花が咲いている。 




東京オリンピックでは、日本代表はアルゼンチンを破るなどの活躍を見せ、ベスト8の快挙を成し遂げた。 


クラマーは東京オリンピック終了後の帰国にあたって、5つの提言を残している。 

・国際試合の経験を数多く積むこと。 
・高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。 
・コーチ制度を導入すること。 
・リーグ戦を開催すること。 
・芝生のグラウンドを数多くつくること。 
今では当たり前のことのようであるが、当時は画期的な提言であった。 

この彼の提唱により1965年に日本サッカーリーグ(JSL)が創設され、当時競技力の高かった大学の有望選手たちが、続々と「日本サッカーリーグ参加チーム(実業団)」に入団することになる。この創設が1968年メキシコ大会銅メダルの栄光につながっていった。 



離日後も、当時の日本代表エース・釜本のドイツ留学を実現させるなど、日本のサッカーに貢献。 

彼の指導を受けた選手・コーチを中心に構成された日本代表はメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した 



「言葉の魔術師」といわれたクラマーは、数々の言葉を残している。 

「サッカーには人生のすべてがある。特に男にとって必要なすべてがある」 

「グラウンドはサッカーだけをやる所ではない。人間としての修練の場である」 

「タイムアップの笛は 次の試合への キックオフの笛である」 

「サッカーの上達に 近道はない。不断の努力 だけである」 

「背を向けて去るな。みんな必要な人間なのだ」 

「試合で勝った者には 友達が集まってくる。新しい友達もできる。本当に友人が必要なのは 敗れたときであり敗れたほうである。私は 敗れた者を 訪れよう」 





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西ドイツユース代表監督を務めた時期にはフランツ・ベッケンバウアーをユース代表に抜擢し、公私両面で指導をおこなっている。 


離日後はFIFAのコーチとなり世界を巡回。その功績が評価されバイエルン・ミュンヘンの監督も歴任。 



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1975年、クラマーはバイエルン・ミュンヘンを率いてUEFAチャンピオンズカップ(CLの前身)で優勝。 

その際、人生最高の瞬間ではないかと問われたが 

「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときだ。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない」と答えた。それほどまでに日本への思いは強かった。 

その後、各国のクラブの監督を歴任し、スクール事業に精を出す。 

今も、各国で行われるコーチの研修に顔を出す事も。 





その遺伝子を継ぐ者、孫のクリストフ・クラマーも疲れを知らぬ走りでワールドカップのピッチで躍動。決勝こそ無念の途中交代となったが、まだ23歳。 

ブンデスリーガ、そして4年後のロシアワールドカップでの活躍を期待しよう。